Vol.23 2022年8月1日発行
考える人
ロダンの彫刻「考える人」はダンテの神曲の裁判官ミノスが地獄の様子を覗く姿を表わしているそうです。地獄を覗くと言えば、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」のお釈迦様が想起されます。お釈迦さまがうごめく罪人の中から大罪人カンダタの一度の善行に哀れみを感じて糸を垂れたように、ミノスも人間の業の坩堝に何を感じて眺めているのでしょうか。
結局カンダタの無慈悲なふるまいで蜘蛛の糸は切れてしまいますが、功名心や世間体でもやはり糸は切れたでしょう。お釈迦さまにとって慈悲の心以外はノイズなのでしょう。
2019年12月に中国の武漢で新型コロナウイルスの報告がされてから、あっという間に世界中を震撼させ、当初はどうしていいか混乱しましたが、それなりに感じたことの根拠を上書きしてきました。
おとなは、しばしば子どもたちに「考える人」を要求します。
しかし「感じる人」でなければ「考える人」にはなれません。感じなければ問いは生まれないからです。そして子どもはおとなに倣います。おとなは感じられているでしょうか。
この度の新型コロナウィルスという印籠にひざまづき、移動、会食、集会等々自由の制限に従ったのは、きっと善行の物語なのでしょう。しかし悲劇はこの善行の果てにあるかもしれません。
物語の解釈に世間体というノイズ。このノイズが力を持った時、世界はどんな世界になるのでしょう?「しょうがない」と真を端折ることにもなりかねません。自然界の営みにノイズはありません。人間はノイズをかぎ分ける嗅覚を自然に倣ったらいいと思います。
ダンテの神曲によると「考えない」で、業のままに生きるのは罪だし、ギリシャ神話のノイズに翻弄された策士たちもまた大罪人だから、大概は地獄、煉獄に落ちてしまうようです。
残念ながら私も極楽は遠いようですが、立ち止まり、森の中で胸いっぱいにおいしい空気を吸って考えると、そのうちキラキラした一本の蜘蛛の糸のように、いつか答えが天から降りてくるような気がして、今日も森にお邪魔します。